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霊巖寺(江東区白河)松平定信墓

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写真: 霊巖寺(江東区白河)松平定信墓

写真: 霊巖寺(江東区白河) 写真: 霊巖寺(江東区白河)

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2011年11月27日 21:02
●松平定信ーー
宝暦8(1758)年生まれ。御三卿田安徳川家初代、徳川宗武の七男。8代将軍吉宗の孫。

幼少期より聡明で知られており、田安家を継いだ兄・治察が病弱かつ凡庸だったため、一時期は田安家の後継者、いずれは第10代将軍・家治の後継と目されていた。
しかし、田沼意次による政治が行われていた当時から、田沼政治を“賄賂政治”と批判して存在を疎まれており、意次の権勢を恐れた一橋徳川家 治済によって、安永3(1774)年、久松松平家の庶流で陸奥白河藩第2代藩主・松平定邦の養子とされてしまう。

将軍世子とまで言われた定信は、このことで意次を激しく憎み、後に暗殺を謀ったとまで言われる。
その一方、自らも幕閣入りを狙って意次に賄賂を贈っていたことは、有名な話。

白河藩 藩主に就任したのは、天明の大飢饉の最中である天明3(1783)年だが、それ以前から養父定邦に代わって藩政を代行していたと言われる。
定信は天明の大飢饉で苦しむ領民を救うため、自らが率先して倹約に努め、さらに領民に対する食料救済措置を迅速に行ったため、白河藩内の飢饉による餓死者は出なかったと言われている。
東北地方で被害が大きかった天明の大飢饉において、この功績は特筆されることである。これは最寄りの会津藩から江戸廻米を買い取るなど、迅速な対応によるものだった。

教育においては、藩士の子弟のための藩校立教館、庶民のための郷校敷教舎を設置し、民衆に学問への道を開いている。

享和元(1801)年、南湖公園を造り、庶民に開放。日本最古の公園。


天明6(1786)年、家治死去。田沼意次失脚。
天明7(1787)年、徳川御三家の推挙を受け、11代将軍・家斉のもと、老中首座、将軍輔佐に。
幕閣から田沼派を一掃粛清。祖父 吉宗の享保の改革を手本に、寛政の改革を行い、幕政再建を目指す。

※老中職には譜代大名が就任することが、江戸幕府の不文律となっている。
白河藩主久松松平家は譜代大名で、定信はそこへ養子に入ったのでこの原則に反しない。家康の直系子孫で大名に取り立てられた者以外は親藩に列せられず、家康の直系子孫以外の男系親族である大名は、原則として譜代大名とされる。
しかし、定信は吉宗の孫であるため、譜代大名でありながら、親藩(御家門)に準じる扱いという玉虫色の待遇だった。


◎失脚――
海国兵談を著して国防の危機を説いた林子平らを処士横断の禁で処罰したり、寛政異学の禁で朱子学だけを正統とし、幕府の学問所である昌平坂学問所では朱子学以外の講義を禁じ、蘭学を排除したりなど、結果として幕府の海外に対する備えを怠らせたとも言えた。

1792年、フランス革命戦争勃発。
フランスの隣に位置するオーストリア領オランダ(ネーデルラント連邦共和国)も戦場となる。
極東の千島を領土としていたオランダ東インド会社と長崎との南北2極で日本列島を挟み、他の欧米諸国を寄せ付けなかったオランダの海軍力が手薄になったことを意味していた。
すると即座にロシアが南下。日本人漂流民である大黒屋光太夫らの返還と交換に、日本との通商を求めるロシア帝国のアダム・ラクスマンが根室に来航する。

1793年、革命軍による制圧の様相がますます強まり、戦争は、欧州全域に波及する勢いで広がっていた。
定信は、大黒屋光太夫とアダム・ラクスマン等一行を松前に招き、幕府として交渉に応じるよう指示。さらに、ロシアの貿易の要求を拒否しない形で、長崎のオランダ商館と交渉するようにという回答を用意し、また、漂流民大黒屋光太夫を引き取るよう指示する。
同年中、ラクスマンは長崎へは行かず帰路に就いた。

オランダがフランス革命軍に占領された場合、ロシアが江戸に乗り込んで来る可能性、千島領やオランダ商館の権利がフランスに移る可能性、イギリスが乗り込んで来て三つ巴の戦場となる可能性などがあった。
定信は、江戸湾などの海防強化を提案。また、朝鮮通信使の接待の縮小なども務める。

寛政5(1793)年、定信は海防のために出張中、辞職を命じられて老中首座並びに将軍補佐の職を辞した。
鎖国の禁を破った罪人であるはずの大黒屋光太夫は処刑を免れ、江戸城で将軍家斉に謁見。
日本国内にキリスト教国からの帰国を許し、蘭学者たちに隆盛をもたらした。
1795年、オランダ(ネーデルラント連邦共和国)滅亡。
代わってフランスの衛星国バタヴィア共和国建国。
1797年、オランダ東インド会社はアメリカ船と傭船契約を結び、滅亡したオランダの国旗を掲げさせて長崎での貿易を継続する。
1799年、オランダ東インド会社が解散。雇い主を失ったオランダ商館は、なおもオランダ国旗を掲げさせたアメリカ船と貿易を続けた。※※※※


定信引退後の幕府は、三河国吉田藩主 松平信明、越後国長岡藩主 牧野忠精をはじめとする定信派の老中を留任し、定信の政策をそのまま続行したため、彼らは寛政の遺老と呼ばれた。
定信の寛政の改革における政治理念は、幕末期までの幕政の基本として堅持される。

定信は白河藩の藩政に専念する。
白河藩は山間における領地のため、実収入が少なく藩財政は苦しかったが、定信は馬産を奨励するなどして藩財政を潤わせた。
政策の主眼は農村人口の維持とその生産性の向上であり、間引きを禁じ、赤子の養育を奨励し、殖産に励んだ。その民政に尽力した功で、領民からは名君として慕われた。

文化9(1812)年、家督を定永に譲って隠居するが、なおも藩政の実権は掌握していた。定永時代に行われた久松松平家の旧領である伊勢国桑名藩への領地替えは、定信の要望により行われたとされている。桑名にある良港が目当てだったと言われている。


信濃松代藩第8代藩主 真田幸貫は定信次男。幕末の名君と呼ばれるひとり。

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