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善光寺(川口市)より南

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写真: 善光寺(川口市)より南

写真: 善光寺(川口市)荒川・JR諸々 写真: 善光寺(川口市)本堂

荒川土手のスーパー堤防工事中。終了次第本堂も新築されるとか。


mixiコメント――2013年07月17日 17:03
歌川広重の江戸百景にも描かれている。「河口のわたし善光寺」。現在の岩渕町41番あたりから描かれており、この眺めの反対となる。岩淵の渡船場は岩淵宿から河口宿へ荒川をわたって向かうための渡船場だった。岩淵宿は河口宿の飛び地。河川も当時は新河岸川。ここが荒川と呼ばれるようになるのは昭和時代。

※荒川についてちょこっと→ http://photo.mixi.jp/view_photo.pl?photo_id=854460890&owner_id=32815602

頼朝挙兵に際し、奥州から参陣した義経がここを渡ったとか。
日光御成道――現在は道筋も若干ズレるが、岩槻街道がソレにあたる(ちょい上流(西))。
渡船場は将軍用と一般用に分けられており、将軍通行の際と善光寺開帳時は船橋(仮橋)が架けられた。船橋は長さ65間(約117m)、幅3間(約5.4m)。
明治38(1905)年、常設の船橋架橋。交通量は増え、この船橋では追いつかなくなり、昭和3(1928)年、新荒川大橋が開通。


↑※
mixiコメント――2016年01月01日 21:17
綾瀬川河川敷。
少々閑話。“荒川”は、江戸時代初期以前は現在の元荒川の川筋を通っていた。つまり関東平野に出たのち東へ下り、武蔵国・下総国境付近(現越谷市・吉川市周辺)で南流していた利根川と合流、そこから合流と分流を繰り返しながら江戸湾に注ぐ川だった。「荒」という名の通りの暴れ川でしばしば川筋を変え、下流域の開発も遅れていた。本流が“今の綾瀬川”を流れていた時代もあるが、戦国時代に水路が掘られて東の星川に繋がれ、綾瀬川と分流した。現荒川は元入間川。
閑話休題!m(_ _)
さて、ここは旧・日光街道…越谷宿蒲生の“一里塚”。埼玉県内では6ヶ所。県内日光道中では唯一の一里塚跡。
(10.11.15.掲載写真1枚目から6枚目までのコメント欄に記していたモノをまとめました。)

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