住宅街 am4:00 (東京都三鷹市下連雀)
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井の頭公園の西、吉祥寺通りを挟み、碁盤の目のように整地された高級住宅街。
すぐそば、北側には玉川上水が流れる。
「住まいは三鷹の連雀」と聞くと、どこかカッコよく、粋な響きを感じていたのだが、なんとなく、その理由が分かった。
「連雀」とは、物を背負うのに用いる背負子(しょいこ)で、肩に当たる部分を広く編んで作った縄や、それを木の枠に取り付けた物だと云う。
具体的にどのような物なのか画像検索を試みたが、そこには電線に連なる雀の画像ばかりで、肝心な物は見つけられなかった。
江戸時代の行商の多くは、この連雀に荷物を担いで各地を行商し「連雀衆」とも呼ばれたらしい。
もうひとつ、小板を使った背負い梯子(はしご)も「連雀」と呼ばれ、江戸は神田の職人たちが愛用していたと云う。
「連雀町」は元々神田にあった地名で、現在の千代田区神田須田町・神田淡路町付近になる。
1657年(明暦3年)1月、神田連雀町での明暦の大火による被災者の移住地として、この付近(現連雀)は神田連雀新田として開墾されたとの記述があった。
現在の神田川は三鷹市井の頭恩賜公園内にある井の頭池に源を発し、お茶の水の聖橋下を流れて墨田川に合流する。
この川は当時からこの経路を流れていたのかな?
だとすれば神田から三鷹へ移住するという点と線が、なんとなく結び付く。
当時は「江戸っ子」の概念などは無かったと思うが、「粋」は存在していたのかも知れない。
現在、三鷹の「連雀」には「上連雀」と「下連雀」がある。
一般に「上」は北を「下」は南を連想するが、上連雀は下連雀の西に位置する。
これは新田開発の進捗により、朝廷のあった京都に近い方を「上」、江戸方に近い方を「下」と称する慣習によって、上連雀村と下連雀村とされた事(1700年前後)が由来する。
この地名の付き方は、千葉県の「下総」と「上総」に共通する部分もあり面白い。
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